病気と"正解"

 先日、数年ぶりに大熱を出した。父親が発熱し、そのウイルスがうつった形だ。家で苦痛に呻いているうちに症状が一段落したので何の病かは定かでは無いが、どっちみち家から出ることが無いのでおそらく問題無いだろう(病院にはすぐ行った方がいいです)。

 便宜上今回の病気を風邪と呼ぶが、風邪で熱を出したのは本当に久々な気がする。少なくとも直近で三年間は発熱したことは無かったのだ。
 39度台の熱が数日続き、飲食がままならない状態まで珍しく追い込まれた。普段は熱を出してもそこまで食欲が落ちないため、うどんでもフライドポテトでも好きなものを食べていたのだが、今回はそうはいかなかった。

 食欲が出ずに布団に潜り込んでいたが、丸一日ほど経ったところで急激な空腹を感じた。這いずるように台所へ向かい、保温された米を見つけて、卵かけご飯を作る。熱のせいで立っていられず、かといって部屋へ戻ることもできずに冷蔵庫前でしゃがみ込んだままかき込んだ。味は覚えていない。
 寝込むために歯を磨こうとして歯磨き粉のチューブを開けようとしたところ、力が入らないことに気付いた。蓋が開かず、普段なら片手で開けているチューブを全身の体重をかけて開けた。

 信じられない大熱は続き、塩分が食べられなくなった。寝込んでいる私に、心配した親が欲しいものを尋ねてくる。
 脳内にバチッと閃くものがあった。マクドナルドのバニラシェイク。
 普段の私はマクドナルドのことをナゲット・ポテト屋さんだと捉えているため、シェイクを頼むことはまずない。しかしこの時はなぜか、訊かれた瞬間にバニラシェイクが浮かんできた。買ってきて貰ったそれに口を付ける。ひんやりしてて甘い、半ペーストのそれが身体にぐんぐん吸収される。
 正解した、と思った。身体が上手く信号を出し、それを受け取る事が出来たのだ。その日は朝夕とバニラシェイクを食べた。普段なら絶対に選ばない食事だ。

 身体からの栄養素のコールを聞き取り、それに適切に対処するのはゲーム的な楽しさがある。高熱のような一大事の時は特に、1回1回の栄養補給が大切になってくる。
 普段からきちんと要求コールに応えているかどうかで、病気の時、食べたいものを見つけられるかが変わってくると思う。日頃の経験値が試される、いわばボス戦だ。

 昔、長引く風邪を引いて喉が痛くなり、コンビニで目に付いた栄養ドリンクを生まれて初めて飲んでみた事があった。
 栄養ドリンクというものは不味いと聞いていたため、それが恐ろしくて目を瞑って一気に瓶を傾ける。
 ほんのり甘く、スパイスが絶妙に感じられて、信じられないほど美味しかった。誇張なく、今までの飲み物で一位に躍り出ている。飲み干してから、「しまった! これならちびちび飲めばよかった!」と悔しがった。
 そして、風邪はその一本だけで呆気なく治ったのだ。あれも"正解"だったのだろう。

 今回の風邪では、いつもは苦手なタルタルソースが極上に感じたり、至上の愛を向けているほっともっとのすき焼き弁当がしょっぱ過ぎて食べられなかったりと難しい変化が多かった。
 しかし、地道に正解を重ね、二週間経った今、もう大丈夫な様に思える。
 先程食べた「豚バラと白菜のミルフィーユ鍋・生姜マシ  の残り汁にインスタントラーメンを投入したもの」から今回一番の"正解"の気配を感じたのだ。というかその量が食える時点で多分治っている。

"部屋が汚い"ということ

 世の中には二種類の人間がいる。部屋が汚い人間と、綺麗な人間だ。
 私は断然汚いほうの人間だ。こういった話の始め方をするなら大抵の人は「部屋が綺麗な人間と、そうじゃない人間」といった順番にあげると思う。汚い人間から出すところに、私の部屋についてのスタンスが表れているだろう。

 整頓や掃除についての話を見る度に、床にものを置くなという言葉に何度も何度も当たる。「部屋の全てのものにお家を作ってあげよう!」なんてのもある。
 床は歩く場所なのか? 私はそうとは限らないと信じている。家は何畳もスペースがある。そのうち床から離れた空間にしかものを貯蓄出来ないなんて、無駄遣いのように思えるのだ。
 もちろん、動きにくいとかのデメリットもあるだろう。だが、人間が動く動線なんてたかが知れている。廊下の幅が2メートルなくても日常に何の支障があるだろうか。それよりも私は人間が止まっている間、空間の有効活用を選びたいのだ。

 部屋が汚いというのにも何種類かパターンがある。ペットボトルや空き容器なんかの純然たるゴミが溢れているタイプから、資料類やコレクション等の捨てられないものに否応なく居住空間を侵食されているタイプまで、さまざまだ。

 私の部屋は100パーセントのゴミは少ないが、探せば捨てられる服や古い書類があると思われるタイプだ。(捨てるために探すという行為に純粋性を感じないのでやらない。日常生活で邪魔だなと拾い上げ、何だこれ捨てようと突発的に捨てる方が純粋な感じがする)

 最大の問題は本だ。軽く300冊はある本は、部屋の本棚からとうの昔に溢れ出し部屋の六割近くを占めている。しかしどれもこれも捨てられないのだ。
 読む度に腸が煮えるため捨てようと決めた本もあるが、そういう本に限ってやたら細かい描写で珍しい職種の生活が書かれていたりして、定期的に資料として読み返す事になったりしている。
 では読んでいない本ならどうかと見れば、それらは作者買いをした"絶対に面白い"本達だ。いつか何らかの理由で早急に面白い本が必要になった時のために積んである。人生には夜中4時頃にいきなり面白い本を必要とする時がある。

 

 そもそも、私は片付いている部屋が苦手なのだ。雑誌に載っているようなすっきりとしたグレーフロアタイルの床、カーテンを特注する必要がありそうな大きい掃き出し窓、ガラス製の一枚のテーブル、ティッシュの一箱も見当たらず、小物は全て棚の上で並べられる余白のある空間。ちょっとお邪魔するくらいならソワソワする程度で済むが、そこで暮らすとなると不可能に思える。
 これは余談だが、私は壁と天井が真っ白の部屋も苦手だ。壁と天井と床、それらがだいたい半分以上白色の部屋に30分ほど居ると、なぜか気分が悪くなってくる。内装が白で統一されているという理由で避けているスーパーや飲食店も多い。

 床やテーブル上が定位置のものが何も無いと、落ち着くことができない。作業の時埋まっているのは確かに困るのだが、デスクやテーブルに何かが無いと集中できない。年に一度ほど思い立って部屋の片付けをしてみるが、見える位置にものが無いと落ち着かなくてすぐ戻している。

 住む空間の情報量は多ければ多い程いい。カーテンはあらゆる場所に掛けたいし、壁は全て絵やポスターで埋めつくしたい(前に実行したところ幽霊が出るようになったのでやらないが)。究極の理想は『ハウルの動く城』のハウルの部屋が近い。
 森見登美彦さんの『四畳半王国見聞録』という本で、主人公が部屋の天井に好きなポスターをバラバラに貼り付け、その下に蛍光塗料を塗った玉をタコ糸でぶら下げ星空風の天井を作るシーンがある。部屋の天井まで活用し自分の城を作り上げるという行為に強く羨ましさを感じた。

 片付いている部屋が嫌な人間はどうも数が少ないのか、床にものを置いておきたい人、というのはなかなか呼称として姿を見ない。
 まあそうだろう。片付いた部屋が嫌な人間は、たいていは満足していて、風水から精神医学まで、全ての分野からの片付けろという圧を各々の強い意志で無視し続けているのだから。
 ツイッター(今は名称が変わったが)で掃除したいのにできない人間へのアドバイスが流れてくるたび、床に山と積まれた戦利品の間に胡座をかいて、宝玉の上で眠るドラゴンのような気持ちでニヤニヤ笑っているのだ。

ピクニックの素晴らしさについて

 ピクニック。素晴らしい響きだと思う。
 私はだいたい二〜四ヶ月に二回ほどの頻度で、ピクニックへの憧れが高まって高まって止まらなくなる。それは素晴らしい青空を見たり、小説で素敵なお弁当の描写を立て続けに見てしまった日だったりする。
 その度に毎回適当に荷物を揃えソロピクニックを決行したり、友人を誘い合わせて本格的なピクニックを行う等している。しかし、行きたいという気持ちとは別に、『憧れのピクニック』について突き詰めたいという気持ちが同時に湧き上がってくるのだ。

 私はそもそも、『存在しない理想』の話が好きだ。存在しないアニメ、存在しないゲーム、存在しない観光地街。理想の中には運営の不祥事も依怙贔屓も観光客のゴミ問題も存在していない(むろんリアリティの追求のためにそういった設定も出すことはあるが、あくまで致命的にならない範囲内だ。話はズレるが、私の理想の街には「観光地化に失敗し可愛くないゆるキャラグッズが置かれている寂れた郊外」等のものもある)

 外国文学や絵本が好きな人なら、一度は素敵なピクニックの描写を見たことがあると思う。焼き菓子、シロツメクサ、バスケット、タータンチェックの敷き布、いちご、瓶ごと詰められたジャム。
 しかし、現実問題としてそういった夢のようなピクニックはとても難しいというのも事実だ。
 素敵な食器は重いし割れるのも怖く、プラフォークや紙コップが便利だろう。ブランケットを敷くと枯れ草や泥がつく、ビニールシートの方がいい。ジャムを瓶ごと? 重い。小分けにしてタッパーで持っていけ。藤製のバスケット? 食中毒になりたくなければ保冷機能の付いたビニールバッグを使うべきだ。

 だからこそ、理想のピクニックは素晴らしいのだ。現実のピクニックをできる範囲内で行いながら(それは例えば紙コップでなく割れにくい分厚い陶器のマグを持っていったりして)憧れを夢想する。
 ピクニックの現実と理想がかけ離れればかけ離れるほど、それは特別になっていく。人が魔法に憧れるように。

 世の中の人々は、もっと理想のピクニックについて語るべきだと思う。実現が可能とは思えないような、夢のピクニックについて。それがピクニックを黄金色の輝きで包む方法だと思う。
 そんなに理想を膨らませると現実とのギャップにガッカリしてしまうのではないかと思うかもしれないが、大丈夫、外で食べる食事は全て素晴らしい。
 夢想こそピクニックの本質である。胸を張ってくれ。

 人にばかり理想のピクニックの話を聞いて自分はどうなんだと思われそうだ。そろそろ自分の理想のピクニックの話をしよう。

 まず、ボートのピクニックをやってみたい。勿論森の中で、自分ともう一人くらい友人が欲しい。それ以外は誰もいないのが望ましいだろう。
 二人で丁度いい大きさの手漕ぎボートに、クッションを置く。友人はできればチェスをできる相手だと嬉しい。携帯のチェスセットを真ん中に置き、その両脇にワイングラスを一個ずつ。甘いワインだといい。
 二人でチェスをし、疲れたらお互いが持ってきた本を交換して読みたい。ワインのお供はバケットとドライフルーツ、クリームチーズ、生ハム。銀のナイフでバケットに塗って、片手間に食べる。
 ラジオも乗船を許可しよう。海外の古いジャズか、クラシックが流れるといい。先程から出してきた小道具は、全て大きい古いトランク(もちろんキャスターなんて付いていない)に詰め込んで持ってきたものだ。濃い茶かキャメル、もしくは深緑で、持ち手はつやつやと磨かれているもの。
 寒くなったら大判のブランケットを出す。生成で縁飾りの付いたものと、クリーム色に柿色のチェックの付いたものを一枚ずつだ。このピクニックの季節がそろそろ見えてきた。秋だ。 

 考えただけでうっとりするようなピクニックだ。完遂した瞬間死んでもいいと言えるかもしれない。勿論先に挙げたのは幾つもある理想のピクニックのうちのひとつに過ぎない。他にも例えば
・森で巨大な切り株をテーブル代わりに、焼き菓子やオーブン料理、その場で淹れるコーヒー等を楽しむ。ランタン付きのピクニック
・芝生で三段トレイとフルセットのティーセットを使う、アフタヌーンティーを兼ねたピクニック
・山の中で行い、複数人で紅茶占いやタロットをし、本を交換して読み合い、野草ブーケを作りお互いのブーケを褒め合う秋のピクニック
など、パターンは無限にある。理想だから実際には自分が出来ないことをやっていてもいい。チェスなんて駒の動きしか知らん。むしろ登場人物に自分が居なくてもいい。理想なんだからピクニックの主催が森のウサギでもアンでもマーニーでも良いのだ。
 あなたの理想のピクニックはどんなピクニックだろうか? ひらめいたなら、ぜひこっそりと教えて欲しい。できれば、私と一緒に行ったピクニックで。それが理想と遠くても近くても、ピクニックはそれだけで素晴らしいのだから。

過去のエッセイ掲載

うっかりブログを1年くらい放置していた。やる気だけはあります、やる気だけは。

 

しばらくは出処のなかった過去のエッセイでも掲載しておこうと思う。

以下は過去のエッセイ1つ目。

 

 カエルが何よりきらいだ。
 ストレスが溜まった時に見る悪夢は大抵カエルに襲われる夢だ。夢占いだとカエルは吉兆らしいが、私に限った話ではそんな事は一切ない。それくらい心底「敵」という認識が根付いている。
 カエルは大抵の種類はどこかに大なり小なりの毒を持つし、動きが読めない。止まったと思った瞬間飛びついてきたりする。要するに、カエルに対する私の敵意の大半は「怖い」に起因すると考えられる。
 従って、カエルへの恐怖心を打ち消してやれば、日々カエルに怯える生活からもおさらばできるはずであろうと結論を出した。しかし、理性で恐怖を抑えるような方法ではダメだろう、視界に入れた途端に考えるより先に身体が逃走姿勢に入るのだ。それこそ本能に「カエル、恐るるに足らず」と教えこまねばあるまい。
 生き物としての強者とは何か、そう。捕食者である。
 都合良くサンシャイン水族館にて米とサーカスという珍味の店と水族館の企画とのコラボ飲食店舗が出るという話を見つけた。そこで、カエルの姿焼きが提供されるのだ。
 食べるしか無い。食べて、頂点捕食者としての自覚と誇りを取り戻すのだ。体長が自分の十分の一以下の両生類に怯えるのはもうたくさんだ。
 私が誘ったら快く承諾してくれた友人を引き連れ店舗へと向かった。彼女がこの勝負の見届け人だ。混雑を心配したが、奥まった場所にあるせいか人は少なく、これならゆっくり対峙できるなと思いつつカエルを頼むと「今から解凍するのでお時間かかりますが……」と店員さんに言われてしまった。
 他に気になっていたグソクムシカレーなどを先に頼み、それらを食べながら憎き奴の解凍を待つことにした。あと二人分の一食で会計が一万円を超した。焼肉くらいの値段だ。
 カエルの前菜のように運ばれる丸揚げのグソクムシ、「殻ごと食べられますよ~」と教えられ、それならと尻からかぶりつく。
 !? 頭に電撃が走った。硬い。エビの殻なんか問題にならないレベルに硬い。まさに具足だ。無理矢理噛み割って臼歯を駆使して咀嚼する。「殻ごと食べられる」とは「(ものすごく努力をすれば)殻ごと食べられ(ないことも無い気がす)る」という事だったのか? 飲み込めない。油断すれば口の中の大流血をお約束! といった触感の殻を根性で噛み割る。飲み込む。
「これ……フフフ、すごいわ、フフフフ」
 友人が余りの硬さに笑い始める。これは戦いだ。他の生き物に食べられまいと甲冑を身に着けたグソクムシと、それを食べんとする私たちの。
 私の口内は負傷し、異様な咀嚼による満腹中枢の刺激でカエルが届いたころには満腹になっていた。一応は残さず頂いたがグソクのインパクトには敵わず、印象が薄い。これでは不戦敗も同じだ。体も捕食本能を思い出していないのか、カエル自体もまだ怖い。
 いつかまた、私はリベンジする。カエルの上位捕食者としての自覚の為に。

 

この文をまた別な友人に見せたところ、「食事を闘争として捉えてるのどうなの」といった意見をいただいた。

それを聞いて、面白い視点だなと思った。書いた時は戦いと感じている自覚こそなかったが、改めて読み直すと確かにそうも思えてくる。

実際、食事とバトルは近しいところに居ると思う。私自身食いしん坊なのはあるが、外食で注文した後見落としていたメニューを見つけると負けた気になるし、定食は運ばれてきた瞬間、食べる順番を考えシミュレーションし、その順番を遂行することに喜びを感じる。

野生の肉食動物ならそれこそ戦闘の勝利=食料の確保な訳であるし。

真正面から食事の中の戦いを書きたい。そう思い飯に関するエッセイをいくつか書いたまま死蔵させていた。

そういった作品をボチボチ載せていきたい。

開設理由

   今朝方思いついた最高の名前がまだこの世に存在しないと知り、急いではてなブログを開設した。これで甲田日口の名前は私のものだ。

 

 どうせならエッセイはエッセイで黒胡麻月介でない名義を使いたいとは前々から考えていた。これからこちらではエッセイ・レポ・日記などを担当してもらう。気に入った名前で始められるのは大変気分がよろしい。

 

 名前には力があると言われている。姓名判断もその思想の延長線上にある。力がある名前を使うことは、まあ気休めくらいの効果なら生み出してくれるだろう。まあ新名義は姓名判断的にもなんとも言えないが……

 

 ともかく新しいこのペンネームが、私によい効果を生むか悪い方へ働くか。それを楽しみに更新していきたいと思う。