"部屋が汚い"ということ

 世の中には二種類の人間がいる。部屋が汚い人間と、綺麗な人間だ。
 私は断然汚いほうの人間だ。こういった話の始め方をするなら大抵の人は「部屋が綺麗な人間と、そうじゃない人間」といった順番にあげると思う。汚い人間から出すところに、私の部屋についてのスタンスが表れているだろう。

 整頓や掃除についての話を見る度に、床にものを置くなという言葉に何度も何度も当たる。「部屋の全てのものにお家を作ってあげよう!」なんてのもある。
 床は歩く場所なのか? 私はそうとは限らないと信じている。家は何畳もスペースがある。そのうち床から離れた空間にしかものを貯蓄出来ないなんて、無駄遣いのように思えるのだ。
 もちろん、動きにくいとかのデメリットもあるだろう。だが、人間が動く動線なんてたかが知れている。廊下の幅が2メートルなくても日常に何の支障があるだろうか。それよりも私は人間が止まっている間、空間の有効活用を選びたいのだ。

 部屋が汚いというのにも何種類かパターンがある。ペットボトルや空き容器なんかの純然たるゴミが溢れているタイプから、資料類やコレクション等の捨てられないものに否応なく居住空間を侵食されているタイプまで、さまざまだ。

 私の部屋は100パーセントのゴミは少ないが、探せば捨てられる服や古い書類があると思われるタイプだ。(捨てるために探すという行為に純粋性を感じないのでやらない。日常生活で邪魔だなと拾い上げ、何だこれ捨てようと突発的に捨てる方が純粋な感じがする)

 最大の問題は本だ。軽く300冊はある本は、部屋の本棚からとうの昔に溢れ出し部屋の六割近くを占めている。しかしどれもこれも捨てられないのだ。
 読む度に腸が煮えるため捨てようと決めた本もあるが、そういう本に限ってやたら細かい描写で珍しい職種の生活が書かれていたりして、定期的に資料として読み返す事になったりしている。
 では読んでいない本ならどうかと見れば、それらは作者買いをした"絶対に面白い"本達だ。いつか何らかの理由で早急に面白い本が必要になった時のために積んである。人生には夜中4時頃にいきなり面白い本を必要とする時がある。

 

 そもそも、私は片付いている部屋が苦手なのだ。雑誌に載っているようなすっきりとしたグレーフロアタイルの床、カーテンを特注する必要がありそうな大きい掃き出し窓、ガラス製の一枚のテーブル、ティッシュの一箱も見当たらず、小物は全て棚の上で並べられる余白のある空間。ちょっとお邪魔するくらいならソワソワする程度で済むが、そこで暮らすとなると不可能に思える。
 これは余談だが、私は壁と天井が真っ白の部屋も苦手だ。壁と天井と床、それらがだいたい半分以上白色の部屋に30分ほど居ると、なぜか気分が悪くなってくる。内装が白で統一されているという理由で避けているスーパーや飲食店も多い。

 床やテーブル上が定位置のものが何も無いと、落ち着くことができない。作業の時埋まっているのは確かに困るのだが、デスクやテーブルに何かが無いと集中できない。年に一度ほど思い立って部屋の片付けをしてみるが、見える位置にものが無いと落ち着かなくてすぐ戻している。

 住む空間の情報量は多ければ多い程いい。カーテンはあらゆる場所に掛けたいし、壁は全て絵やポスターで埋めつくしたい(前に実行したところ幽霊が出るようになったのでやらないが)。究極の理想は『ハウルの動く城』のハウルの部屋が近い。
 森見登美彦さんの『四畳半王国見聞録』という本で、主人公が部屋の天井に好きなポスターをバラバラに貼り付け、その下に蛍光塗料を塗った玉をタコ糸でぶら下げ星空風の天井を作るシーンがある。部屋の天井まで活用し自分の城を作り上げるという行為に強く羨ましさを感じた。

 片付いている部屋が嫌な人間はどうも数が少ないのか、床にものを置いておきたい人、というのはなかなか呼称として姿を見ない。
 まあそうだろう。片付いた部屋が嫌な人間は、たいていは満足していて、風水から精神医学まで、全ての分野からの片付けろという圧を各々の強い意志で無視し続けているのだから。
 ツイッター(今は名称が変わったが)で掃除したいのにできない人間へのアドバイスが流れてくるたび、床に山と積まれた戦利品の間に胡座をかいて、宝玉の上で眠るドラゴンのような気持ちでニヤニヤ笑っているのだ。